senza titolo n.4(la fermentazione dell'aria)

発酵する時間

夏の広島は、強い太陽の日差しと湿気で、たとえようのない暑さです。その暑さは、まるで頭の中まで沸騰してくるようです。
2011年8月6日、私は広島で原子爆弾により被災された方々と、そして今年3月に、東日本大震災で亡くなられた人々を想いながら、原爆慰霊碑に一輪の花を手向けていました。広島原爆投下から、66年目に当たる、広島平和式典が開かれる日です。広島の地を初めて訪れて感じた事は、例え月日が流れようとも、原子爆弾の被害者の苦しみは、今までもこれからもずっと続いて行くという事でした。痛感したのは、経験者の方々は原爆後遺症という、体に受けたものだけではなく、残酷な体験によって、精神的にも苦しめられてきた、ということでした。
8月6日。その日、広島は街のあちこちで講演会や音楽会、デモなどが行われ、戦後、平和についてのメッセージを発信し続けていました。しかし、今年、2011年3月に起きた東日本大震災による福島原発事故は、そんな苦労も虚しく感じさせられる出来事でした。今まで、正しいと信じられ推進されてきた原子力の平和的利用というものに、初めて疑問が投げかけられました。原子力の平和的利用とは、一体何だったのだろうか。事故は止められなかったのだろうか。
望まなくても66年前の広島に今年の福島が重なった瞬間でした。

”私達は、どこから来た方でも歓迎致します”と、書かれた入り口の看板に目が止まり、私は広島世界記念大聖堂に、足を踏み入れていました。ちょうど昼のミサと一緒に、一台の被爆ピアノによる、演奏会が始まるところでした。爆心13キロで被爆したというピアノの側面は、爆風のガラスがいくつも、突き刺さったのでしょうか、修復の過程で、取り除かれ、黒く変色し抉られた痕に、私は強い衝撃を受けていました。
次に、この日のピアノ奏者である女性の話をしたいと思います。彼女の父親は、在日韓国人一世でした。韓国カトリック教会の神父でもありました。第二次世界大戦以前や、戦争中、その後の長い間、日本に暮らす韓国人は、様々な差別、迫害を受けてきました。戦後生まれの、日本人の様に暮らしてきた彼女にとって父親が、日本人に持ち続ける嫌悪感を、どうしても理解する事が出来なかったと言います。過去の恨みを持ち続ける事に、意味があるとは思えなかったし、父親との間に、深い断絶を感じていました。ところが、彼女が成人して、アメリカ留学の準備をしているなかで、問題が生じてきたのです。日本政府は、在日韓国人二世である彼女に、日本を出る時は、指紋の押捺が義務づけられている事、もし拒否するなら、再び日本に入国する事は出来ないと通告してきたのです。彼女はいろいろ悩んだ末に押捺をせずに、アメリカへ発って行きました。そして、特別永住権を失ってしまうのです。その後10年間、入国管理局とやり取りをする中で、彼女を驚かせたのは、普通の人々は親切で善良なのに、一度国の権威を背負うと、どこまでも冷たくなるものということです。そして、このとき初めて彼女は父親の気持ちを、理解する事が出来たそうです。彼女の「私は、記憶というものは人を支配するものだと思うのです。」と言った言葉が印象に残りました。

広島の訪問は、私の体内にある一種の熱を残し、未だにその温度が保たれています。多分、それは66年前にとてつもない衝撃によって飛散した悲劇の欠片を、発酵させ変化させた温度です。
希望と願いが悲しみから芽を出し、そこかしこに生い茂る町から種を持ち出して発芽させたいと思いました。

2011年10月  飛鋪 亜紗子